世界の街角から見た日本
世界一周船旅の見聞記 その1
1500人で105日間の船旅
「PEACE BOAT」に乗船して世界一周の旅を続けています。
4月13日に横浜港を出港して7月26日に寄港する105日間の船旅です。
コースは、中国沿岸を南下してインド洋に抜け、アフリカ大陸をぐるりと回って大西洋を北上し、
ヨーロッパから北米大陸沿岸を南下して中南米まで行き、
パナマ運河を通過して太平洋に出て、帰ってくるものです。
船内での乗船者挨拶パーティ。タキシードを着て参加しました。
船の中央は3階分吹き抜けの広い空間でありあちこちにソファで楽しむコーナーがあります。
当初はスエズ運河を抜け、ヨーロッパを観光する予定がかなり入っていました。
しかしウクライナ戦争、イスラエル紛争が勃発し、戦火のわきを通るのはリスクがあることから
アフリカ大陸の喜望峰を回るコースに変更になり、お陰様で初めてアフリカの地を踏みました。
いま、パナマ運河を通過して太平洋に出たばかりです。
これから北米大陸を北上してアラスカ付近まで行き、そこから一路横浜に向かって帰路の航海になります。
ハワイに寄らないのが気に入らない旅程ですが、これは仕方ありません。
さて、世界各国を回って感じたことを少し、書きたいと思います。
外国を転々と回っていると、日本の善し悪しを感じるものです。
そのことにも触れたいと思います。
1500人の乗船客でイベント盛りだくさん
乗船したPEACE BOATについて若干、触れておきます。この船に入って仰天しました。
15階建てのバカでかいビル施設であり、部屋もビジネスホテルの大きめのシングルです。
ここで105日間過ごすことになりますが、
18か国、21か所の港に停泊して上陸し、見聞を広げようというものです。
残りは船内で過ごすので、各種イベントが毎日開催されており
乗船客は毎日のように講演や映画、習い事など自由に参加して楽しむことが出来ます。
中国・深圳を後にしてインド洋を南下する船の最後尾からの光景です。
アフリカは搾取され隷属された大陸
生まれて初めて上陸したアフリカ大陸は、
南アフリカ共和国(南ア)、ナミベア共和国の2つの国でした。
アフリカが近づくにつれて、船内ではアフリカに関わるさまざまな歴史、自然、現状の解説が続き
無知だったアフリカについてそれなりの知識をいただきました。
南アと言えば、ラグビーの強豪国、
コロナ感染ではアフリカで最多になった国などの印象しかありませんでしたが、
上陸して最初に驚いたのは、体型でした。
特に女性はどの方もビーナス像をもう一回り大きくしたような独特の体型をしており、
皮膚の色に関係なくそうでした。
簡単に言えば、バストとヒップが「異常」に大きく、質量感が半端でないということで、
これは他の人々も同じ感想でした。
街で出会った小学生たちの体型は、日本人と変わらないように見えましたが、
20歳代からこうなるようです。
同行したご婦人たちは、どうしてあのような体型になるのかという話題で盛り上がっていました。
サファリパークのレストランのウエイトレス嬢とツーショット。
どこでもこの体型の女性ばかりでした。
南アは、アフリカ随一の工業国であり、医学研究でも聞いたことがありました。
アフリカではそれなりの地位にあると思っていましたが、
入ってみると貧富の差が大きく、街全体はゴミだらけで不潔感がありました。
こういう場所に入ると、日本がやたらときれいないい国に見えてきます。
しかし国民は男女とも素朴で素直で飾りがない。
にこにこして英語で親切に応対してくれます。
簡単に言えばすれていない。
男性はかなり背が高く、横幅はそれほどでもありません。
とにかく体格がいいのです。見ていると身のこなしが敏捷です。
ラグビーに強いのも、この体型と動作から来ているのでしょうか。
自然公園、といっても東京の一つの区くらいの広大な面積の私立公園ですが、
サファリパークが売り物で、筆者も参加しました。
トラック型の座席むき出しの見学カーに分譲しての見学ですが、
キリン、サイ、ゾウ、シマウマなどが草をはむ光景は、やはり格別でした。
サイはひたすら下を向いて下草だけをはみ、
キリンは高い枝葉のおいしそうな若い葉っぱを食べていました。
パークと言っても、餌は自前で調達するので
ライオンに追われる草食動物の光景も見られるそうです。
短時間の見学でライオンの昼寝時間帯にさしかかったので見ることはできませんでした。
別のグループは、ライオンの群れにぶつかったようで、興奮して話をしていました。
ゾウの群れとサイの群れ
南アの歴史、と言うよりもアフリカ全体の歴史で印象に残ったのは
奴隷制度とヨーロッパから来た人々の搾取でした。
これまで聞いたり本で読んだり映画を見たりして、それなりの知識・情報はあるように思っていましたが
現地にきて奴隷収容の家屋を見せられ、
人が人を売り飛ばして利益を上げて大邸宅や屋敷をつくり、街と文化を創り、
地域ごと国ごとを搾取してきた歴史を実際に聞きました。
アフリカ諸国を隷属下に置いた国々は英仏独蘭伊西などであり、
いまそれぞれの国で過去の歴史と向き合うさまざまな試みがされているようです。
アメリカのオバマ大統領が誕生した際に
「あれほど優秀な人間は見たことがない」と言わせるほど優れた資質を持った人物として紹介されました。
だからこそ大統領にもなれたのです。
「天才は人口比で生まれる」という法則があるそうですが、
アフリカにもそれなりに天才がいたはずです。
育った環境や教育があれば、誰もが開花する機会があったのでしょう。
現地の人たちは、歴史を正確に史実として残すことが重要であると考えているようで
隷属下にした先進国に対する敵愾心のようなものは薄いように感じました。
鉱物資源など豊かな国もあり、教育制度をしっかりと根付かせればそれなりの国になるのでしょうか。
一方で、部族間の対立と闘争、貧困と略奪の横行、国家インフラの貧困など課題も抱えており、
アフリカが普通の国家群に並んで行くには、あと100年は必要でしょうか。
そんな感慨を持ちました。
砂漠の国の壮大さに感動
ナミベア共和国には砂漠を見るために行っただけでしたが、もうそれで十分でした。
バスで砂漠見学に出かけ、目的地に着いて回りを見たら
「なんだ、こんなものか」と思ったりしました。
ところが歩き始めて丘陵を登ろうにも足を取られてなかなか進みません。
そのうちだんだんと全体の景観が見渡せる地点まで登っていきました。
膨大に広がる砂漠の光景は、ただすごいなあと思うだけで、
言葉で言おうにも見つからない無限の砂地が広がっていました。
足を砂にすくわれて手をついた瞬間、きめの細かい砂に触れてびっくりでした。
数千万年の自然の中できめ細かく砕かれて出来た砂なのでしょう。
世界で初めての砂漠とうたっていることにも納得しました。
このような砂漠にも多くの生物が生息していることに、自然のすごさを知りました。
この国は砂漠と鉱物資源しかないそうで、
大西洋に面した海岸線では漁業もあるようですが、
市場やレストランを見る機会もなく、ただ砂漠を見て帰ってくるというバス観光でした。
喜望峰は、誰でも一度は見てみたいという地点のようであり、楽しみにしていました。
ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが、1488年にインド洋への航路を初めて発見したとき
故国の国王が荒海を乗り切って大陸の突端の岬にたどり着いた偉業を称えて
「希望の岬」と呼び、それが地名になったとも伝わっています。
英語では「Cape of Good Hope(希望の岬)」と記載されています。
江戸時代に屋久島に上陸した宣教師を調べた役人が、
宣教師の持っていた地図に記載されていた外国語から
この岬を「喜望峰」と翻訳し、福沢諭吉がそのまま著書に記載したことから定着したようです。
喜望峰に立つ
船から降りるとただひたすら、喜望峰を目指してバスは走り出しました。
途中で遅めのランチを食べてからもひたすらバスは走ります。
アパルトヘイト(人種隔離政策)と闘ったネルソン・マンデラの銅像が立つ市庁舎を車窓から見ながら、
ともかくも喜望峰に向かってひた走りました。
海岸に押し寄せる波頭が幾重にも白い線を引いて、独特の景観を見せるようになります。
インド洋と大西洋がぶつかり、複雑な海流を巻き起こしているのでしょうか。
泡立つ波頭の模様が際だち、遠くの岩山の突端に小さな灯台が見えてきました。
バスを降りて誰もがまっしぐらに突端まで行き着き、写真撮影に入ります。
ついに喜望峰に立ったのです。
この泡立つ波頭の複雑に織りなす光景を、歴史に残る海洋冒険家のヴァスコ・ダ・ガマも見たのでしょうか。
帰る時間に追われバスに乗り込む直前、今一度、喜望峰から海水線に沈み行く太陽を眺めました。
そのとき上空に向かって放射状に照らしていた赤い太陽の色が褪せていき、
一瞬、緑色に変色したのです。
同じ光景を見ていた人たちが、一斉に「あっ」と声を上げた次の瞬間、
太陽は海水面下に没していきました。
この光景を見た人たちがひとしきり、緑の太陽の話で持ちきりです。
後で調べたらこれは太陽が昇るときと沈むときに見せる
グリーン・フラッシュという光学現象であることがわかりました。
滅多に見られない光景であり、写真を撮る瞬間も持てず記憶の中に刻み込んだだけの緑の太陽でした。
(つづく)