責任論
毎年8月はお盆の行事に重なり合うように、終戦の慰霊行事が行われる。
先の大戦と言えば第2次世界大戦ではなく「応仁の乱」と言われる京都でも五山の送り火で偲ばれる御霊のなかで戦没者と言えば太平洋戦争の犠牲者であろう。
パリオリンピック卓球女子のメダリスト早田ひな選手が「帰国したら鹿児島の知覧特攻平和会館を訪れ、私たちが生きている事、そして卓球が出来ている事が当たり前じゃないのを感じたい」旨の発言をした事は記憶に新しい。
かつて「指揮官たちの特攻:幸福は花びらのごとく」と言う本を読んだことがある。
小泉元総理が現役時代、愛読書のひとつとして紹介していたので手に取ったものである。
多くの特攻隊員の遺書が掲載されていて、殆どが20歳前後の若者のものである。
20歳を少し出ただけの特攻隊員に下士官の位がついていたり、必ず後に続くと若者たちだけを送り出しただけの司令官の記載だったりがあり、「指揮官たちの特攻」の指揮官とは誰をどんな意味で指したのか曖昧な記憶になってしまった。
これから人生を謳歌出来ただろう若者たちが、泣き悲しむ父母を想像しながら書いた遺書は一筆なりとも涙なしでは読めなかった。
余談ながら、遺書と言う性質上、背伸びした文章である事を差し引いても、そこから伝わる彼らの精神性の高さに比べ、幼稚な社会に幼稚な自分が何も考えずに生きているような恥ずかしい感覚を覚えた記憶がある。
ある特攻隊員の「敵空母を沈めたら帰って来ても良いか」の問いを、指揮官が否定し死ぬことに意味がある旨の逸話のくだりでは止めどない怒りがこみ上げた。
多くの若者を無謀な作戦で死なせた責任はどこにあるのか。
現場の指揮官か、作戦の発案者か、はたまた作戦を承認した戦争指導者たちか。
先日のTV番組の中では、特攻での戦死者を軍神(神)として迎える故郷の村々、特攻がある限り敗けないと世論をリードした新聞等の報道、これに熱狂する多くの国民等の責任も語られていた。
最初に何らかの決定は必ずあるのだろうが、その後の展開や集団の規模が大きい場合は結果責任の所在がわかりにくくなる。
結果責任を明確にする事は責任者を糾弾する為ではなく、同じ間違いを繰り返さない為である事は改めて力説する必要もないが、残念ながら、日本人は特に責任の所在を曖昧にしがちに思える事がある。
聖徳太子の17条憲法のいの一番にある「和を以て貴しとなす」の精神が物事を曖昧にしがちなカルチャーに昇華している訳では無いと思うが、計画の立案(P)、実行(D)、実施結果についての評価と結果責任の明確化及び次に生かすべき学びの抽出(C)、次への実践適用(A)のサイクル所謂PDCAが弱くはないだろうか。
PDCAの重要性が声高に叫ばれている産業界に於いてさえP・D・C・Aの順に実行エネルギーは低下する。
上記のような大きな問題については責任の所在も含めC(チェック)が最も重要なステップだと思うが、多くの場合DからCへの低下落差が大きい。
私はかつて、ある中央省庁のプロジェクト検討委員をしていた時に忘れられない経験がある。
プロジェクト最終案確認の会議だけを残した実質最後の実務会議で、「大変重要なプロジェクトなので、是非実効性を高める為にもPDCAをしっかり回すと言う文言を最後に入れて欲しい」と発言した。
頻繁に、同じような政策課題に対し若干名称が変わっただけのプロジェクトが現れては消えてゆく事を繰り返しているように感じていた私なりの問題意識からの発言であった。
これに対して役所の取り纏め側の関係者も賛意を示してくれ最終纏めを待つだけになった。
ところが何週間後かの最終案にはPDCAの一文字も無くとても残念な思いをした。
前の回の提案に対して示された賛意の表現が大変大きかっただけに、たった一行で済むPDCAの文字が無かった事に強い意志が働いているように感じ、指摘をする気にもなれなかった。
時の政権の重要政策、延いては国民的関心事項についてのプロジェクトを打ち上げて予算化(Pとある程度のD)すればそれで終わりと言わんばかりの無責任さでは無いと思うが、CAが嫌われているのは確かなようであった。
国や公共団体、そこからの影響が強いアカデミアでは企画偏重、箱物行政が先行しがちであるが、(ある意味厄介な)CAが伴わない故に貫徹しない効果不明なプロジェクトが多くないだろうか。
このような事が責任論不在のまま連綿と続くとしたら、かつて日本人が決定的に責任論を磨く機会の礎となった御霊にどう顔向けができるのか。
政治家がこの時期に至る所で口にする「平和日本の礎になってくれた御霊に哀悼の誠をささげます」が空疎に腹立たしく聞こえるのは私だけであれば良いが。