これも天つば
職業差別ともとられる発言で辞職した知事がいた事はまだ記憶に新しい。
勿論職業に貴賤は無くそれぞれが社会の中で重要な存在として機能している。
特に我々の生活圏では完全でないながらも多くの経済的(商業的)現象は需要と供給のバランスで成り立っている。
私はかつて霞が関で中央省庁、特に経済政策関係のいくつかの検討会やら調査会に関わった事がある。その時大きくふたつの問題意識を抱いた事があった。
ひとつは大きなプロジェクトの貫徹力に関わる問題。
もうひとつは世の中の金の流れに関する問題であった。
前者は前号のPDCAのくだりで少し触れたので、ここでは後者に係る体験を伝えたい。
記述の通り、職業に対しての基本的な考えは不変のものとした上で誤解を恐れずに述べると、当時私が抱いた素直な感情は「なぜ、日本のものづくり産業を下支えする多くの事業者が資金繰りや後継者の不在に苦しんでいるのに、大食いをしたり、人を笑いものにしたり、遊んでいるだけにしか見えないようなTV番組でお笑い芸人はじめ多くのタレントは裕福に稼いでいるのか?」「金の流れがおかしいのではないのか?」であった。
その時は業務上、研究開発系ベンチャー企業や物造り系中小企業に肩入れする側にいたのは確かであるし、タレントやバラエティー番組制作側の実情、苦労を知らなかったのも確かである。
従って偏見的意識だと言われれば反論の余地は無いが、当時はかなり憤りを伴った感情だったと記憶している。
多くの産業や企業が業界団体を構成しているように、私が所属していた企業も大きな業界団体の構成企業となっていて、いくつかの委員会に委員を出していた。
責任者を務めていた知財関係委員会では知財に関わる諸課題や技術管理に関する諸課題が議事の中心であったが、敢えてそこで上記についての問題提起をした。
言うまでもなく民放の番組はスポンサー企業の宣伝広告費で成り立っている。
委員会の構成会社は皆ビッグスポンサーである。
当時の私にはスポンサーするに値しないように見えたTV番組にも業界団体構成企業のお金が流れている。
スポンサーシップを見直しその資金的リソースをもっと物造り業界に向けられないかどうか、そこに一石を投じないかと言う主旨の提案である。
勿論、それが実現したとしてもそれだけでは大勢を変えられないだろう事は承知の上での問題提起であり、何かのきっかけにしたいとのアクションだったと思う。
委員の皆さんも、それなりに話はきいてくれたと思うが、自分たちのテリトリー外の話として捉えていたようで大きな議論にはならなかった。
委員会で問題提起し何らかのアクションを促した以上、まずは自社内で動かなければならない。
早速、自社の宣伝広報を掌る部署の責任者と会談をした。
宣伝広報の在り方や費用対効果等、門外漢ながら色々な話をした。
企業イメージを損ねる恐れがあれば、娯楽番組は勿論、情報系報道番組でもスポンサーはしない等、一般論的な方向性を共有して行く中で、「我が意を得たり」のタイミングで話を切り出してみた。
私が見る限りお金を出すのに値しないバラエティー番組へのスポンサー等、見直す余地は無いのか?私は彼に責任者としての迷いや悩みの吐露も含めて何らかの答えを期待したが一言で見事に裏切られた。
「結局は視聴率が全てですから」・・・・なんだ、偉そうな事を言ってしまったが、その不愉快な世の中を支える加担をしていたのは自分たちだったのか…。
委員会であたかも他社の確認を促すように偉そうな問題提起をしてしまった事が恥ずかしい…これが「天唾」か…。
「天に向かって唾を吐く」の英語はいくつかの比喩的な表現に加え以下のように表現されているようだ。
to harm oneself as a result of to harm someone else
誰かを傷つける試みの結果自分が傷つく
自分のした事、言ったことが不利益な形で自分に降りかかる事を揶揄するフレーズである事は間違いない。
「天に唾する」とは良く言ったもので、その物理現象程の直接感はなくても因果応報的ニュアンスを含めると世の中至る所に存在する。
最も苛立ち無力感を味合わされるのが政治家選びである。
昨今の政治改革議論を見ていても既得権を守ろうと汲々としている彼らの常套句が、さらに…(さらに日本を前に)、これからも…(これからも緊張感をもって)等々。
長期的な政治のリーダーシップ欠如による日本の苦戦を憤る目で見ると、いままでやってきた者だけが使うべき「さらに」「これからも」は空疎な取り繕いで、それぞれ「今からは」「今度こそは」に入れ替えて働いて欲しいと強く思う。
ただ、いくら能力、適格性の無い政治家でも勝手気ままにその職業に就く訳ではなく合法的な手段でしか成り得ない。
実はこれこそ壮大な天唾の構図である。
こんなレベルのリーダー達の存在をいくら嘆いてみても選んでいるのは我々自身に他ならない。
上記に限らず、昨今の国内外政治リーダーたちの言動を見ていると、因果応報的ニュアンスの「天に唾する」や類似のフレーズは世の中から消える日が近そうに感じる。
過去の発言と現在の行動の一貫性を問われても「そもそも意味が違う」と白を切る。
一貫性を欠いたその場しのぎの行動を非難されても「なぜ」の説明がないまま「指摘には当たらない」の一言で幕を引く。
こんなリーダー像を日常みせられたら、一貫性のない駄々をこねる幼子のほっぺをつまんで「どの口がゆうてんの?」と自分の発言に責任を持つことを躾ける親も消えて行きそうである。
勿論一貫性がすべてではなく大事なのは、言動を変える、あるいは結果として変わったなら
それをまず自己の中で総括し、周りに対して落とし前をつける事であろう。
政治、企業活動一般生活すべてに共通する。
ここまで書いて、はた、と思った。
委員会での問題提起、動いてみた後の不本意な結果は鮮明に記憶してたが、その後どう落とし前をつけたか記憶が定かではない。
もし結果説明もせずにうやむやで終わらせていたなら当にこのジャーナルが私にとっての天唾になる。