判断力・AIに負けない自分軸
今回、このジャーナルにスペースを頂くに当たり、ずいぶんと思い悩んだ。
しばらく遠ざかっていた小説を読んでみたり過去に自分が感銘を受けた事等あれやこれや思い返してる内に季節は移ろい、自分が何よりも恐れている止める事の出来ない時の流れを迂闊にも許してしまっていた。
折角の機会なので多くの方に納得してもらうのかそれとも批判は覚悟で身勝手ながらの持論を述べるのか等、堂々巡りで答えはでないので、まずは自然体で思いつくまま始めてみたい。
出来れば、多角的広角的に物事を俯瞰したいとの思いからこのシリーズを「イーグルアイ」とさせて頂いた。
世の中を見るのに重要なのは、鳥の目のように俯瞰的に、虫の目のように精密に、魚の目のように潮目を読む事との教えのうちの一部と重ねたものでもあるがどちらかと言うと今後散らばった題材を書く事への事前のイクスキューズととって頂ければありがたい。
尚、昨今の状況から、あがなえるか否かは別にして出来れば生成系AIでは書けないコンテンツを目指したい。
私たちは、一日に数万回もの大小の判断や意思決定をしていると言われている。
その多くは言葉による会話や一瞬の身のこなしやら即座に反応として現れる。
多くの場合インプットは正しくてもリアクションに個人差が出る。
例えば、物が飛んできた場合、その現実を視覚的に捉える状況はおなじでも右に避けるか左に避けるか、またはしゃがんで避けるかの判断には個人差が出るのは当たり前として避けきれたかどうかは一部後悔が伴うにしても結果として受け入れなければならない。
ただ、これが視覚的な客観性の現象ではなく表現的に意味合いが変わる事象に対してはどうだろうか。
誤解を恐れず例示させてもらえば、社会的に良く使われる表現として「それは国の問題だ」とか「国がやるべき事だ」が日常登場するが概念的なこの表現に対して多くの人は残念ながら無関心であるか同調的である。
これを、「あなたのお金(税金)を使ってまでやるべきだ」と置き換えた時、同じリアクションとなるだろうか。
また、昨今クローズアップされている政治家の能力レベルの問題も然りである。
政治家を選ぶのに、これまた多くの国民は若干無関心であるか、われわれのリーダー「先生」が(自分を含めて)誰かの投票で決まる程度のものと思っている。
もしこれをあなたが自分のお金で「誰を雇い(政治と言う名の)あなたの仕事をさせますか」と置き換えた時、同じ行動になるだろうか。
犯罪加担を「(闇)バイト」、浮気を「不倫」、虐待犯罪を「いじめ」、不良を「ヤンチャ者」等、物の本質を少しだけ摺りガラスの中に入れたような表現に思うのは私だけだろうか。
表現はどうあれ、その本質を見据えた上でリアクションに差異が出るのならば何の問題もない事だが自分に置き換えると難しい問題だと自認せざるを得ない。
一日に行われる何万回もの判断は、人の行動を決定付け延いては人生を左右する。
だからこそ、それぞれ判断の前に「バイアスのかからない与件を並べ、その上で最善の答えを出すことが肝要」と言われている。
ここに、今や多くの人が情報の収集だけでなく色々な事案解決の方向性までを頼るようになりつつある生成系AI を競争相手として絡めてみるとどうなるだろうか。
勘案すべき与件並べとそれに基付く判断の機能では進歩するAIにかないそうもなく早くも白旗を上げる事になりそうである。
ただ、そこに個々人が自分史の中で積み重ねた良質のバイアス(正確な客観情報を加味しても尚持ち得るバイアス)を加味出来ればAIの出す答えに別の価値を付加できるかもしれない。
勿論、AIも個人が積み重ねたバイアス傾向をマスの情報としては持つだろうから人間は個性的でなければいけない事になるが単に奇をてらったような見せかけの個性では役に立たずたちうち出来ないのではないだろうか。
多様性の時代、人の個性価値観がより重要視される中、見方によってはAIによりもたらされる類似ベクトルに人が流されかねない矛盾をはらむ中、人はどんな軸を持ち続けたら良いのか。
私はAIの専門家でもないし、使いこなしているわけでもないので私の想像力ではとても及ばない近未来が待っていると思うが人対AI、皆さんはどんな意識をお持ちだろうか。