コラム

3Dプリンターに見る技術革新と特許(4)

3次元CADの実用化と3Dプリンター

CADで3次元設計を作成した成果を3次元でアウトプット方法は、デジタルデータを積層して3次元物体として出すことにある。当初は光造形装置といわれ、いま3Dプリンターと言われるものだ。

積 層技術は小玉秀男氏が発明したものであり、その後もいくつかの企業が開発と実用化を目指したようだが、この絶好のチャンスを日本企業は生かすことができな かった。コンピューターのハードウエアの製造・開発ではそこそこの実力を発揮できる日本企業だが、ソフトウエアの開発にはめっぽう弱い。その弱点がこうし た新しい概念の製品開発で後れをとることにつながっているのである。

小玉氏に次いで世界で2番目に同じ原理を論文にしたスリーエム(3M)社の研究員、アラン・ハーバートはなぜ実用化にも成功せず、特許出願もしなかったのだろうか。1996年になって小玉氏は、アメリカで開催された学会の会場でハーバートと出会う機会があったという。

そこで小玉氏は「なんで特許出願をしなかったのか」と聞いてみた。すると彼は「私も出願したかったんだが、会社の特許部が特許出願の予算は限られている、こんな内容の特許を出願するカネはない、と言ったんだ」と語ったという。

アメリカの企業でもこのようなことがあることを知って面白かった。

アメリカ企業の開発担当者が特許を取得して事業家へ

小玉氏論文が国際学術雑誌に掲載されてから3年余経った1984年8月、アメリカのチャールズ・ハルは、勤めていた会社を辞めて新しくスリーディー・システムズ・インコーポレーテッド(3D)社を設立し、光造形装置の特許出願を米国特許商標庁に出願した。

3D社は1986年に、3次元CADで作成された断面データに対応して樹脂を自動的に固まらせて積層する方法と装置で特許を取得した。日本特許庁への出願は、1985年8月8日である。

光造形装置の特許を取得し、この装置を市場に出したのは、最初に特許を出願した小玉氏ではなかったのである。最終的に特許を取得したのは、3D社の創業者 のハルである。ハルの優れている点は、小玉氏が発明した光造形装置の技術に3次元CADの断面データを対応させて樹脂を硬化させるという光造形法のソフト を加味したところに新味と強さがある。

この結果を見るとき、アメリカと日本のコンピューター技術のレベルの差を感じる。つまり、アメリカは3次元CADのアウトプットの具体的方法をすでにその 当時、考え出す時期に入っていたことを意味する。技術革新は、ある一面が早く開発されてもその技術を取り込む別の技術が遅れていると、総合的な革新には結 びつかない。

ハルは優れた技術者であるが、その技術を開花させたコンピューター技術の環境が、その当時アメリカではできあがっていたのである。このへんに、コンピューターのソフト開発で常にトップを走るアメリカの実力の一端を感じないわけにはいかない。

3D社はやがて世界中に光造形装置を売り、技術供与を希望する企業からはロイヤリティを得ることになる。

デトロイトの展示会場で3D社の光造形装置を見た山田眞次郎氏は、その後この装置を日本で販売する代理店契約を3D社と結ぶ。山田氏の目的はこの装置を日本で広げ、設計・試作・金型作りの現場を職人のワザがなくてもできるようにしようと思ったのだ。

日本では職人が年々減少し、金型作りの中小企業も年々減少してきていた。金型職人の後を継ぐ若い年代層は、「きつい」「汚い」「危険」と言われる3K職場の職人などには、なりたがらないことを知っていたからである。

光造形装置と最新式の金型作りの工作機械を使えば、職人がいなくても金型作りができるようになる。日本の職人ワザは、長年の努力と創意で築き上げた、もの作りの貴重なインフラだが、これがなくても金型作りができるというのでは日本のピンチになる。

現役の職人が残っているうちに新しい流れを作らないと、職人があまりいないアメリカやアジア諸国に、日本の金型産業をもっていかれる危険がある。もの作り の中核に位置している金型作りは、コンピューターによる技術革新があってもこれまでのように日本が圧倒的シェアを保つ必要がある。

山 田氏はその後、光造形装置を日本で販売するだけでなく、自らコンピューターと情報通信のネットワークを構築した近代的な金型作りの企業活動に乗り出す。そ れが株式会社インクスの創業に結びつく。ただしインクスは、2008年9月に発生したリーマンショックの経済恐慌に巻き込まれて倒れる悲運があった。

アイデアを生み出す源泉

小玉秀男氏が、今日の光造形装置の原理を考え出した軌跡を、ここでもう一度おさらいしておこう。1977年に27歳で名古屋市工業研究所の研究員になった小玉氏は、しばらくして3次元CADのデモンストレーションでオペレートの経験をする。

そのときから小玉氏は、3次元CADには立体形を作ってくれるアウトプットが必要だと考えるようになる。そのうち彼は半導体製造でのフォト・レジストの技 術を知る。さらに彼は新聞印刷をするときの感光性樹脂の版下作成技術を知るようになる。そしてその技術を知った帰りのバスの中で、光造形法のアイデアを思 いつく。

小玉氏が、展示会へ顔を出し、その行動の中からCADを知り、フォト・レジストを応用する版下技術を知る。研究室にばかり閉じこもっていたなら、こうしたアイデアは湧き出してこなかっただろう。

また小玉氏は、光造形のアイデアの発見とそれが実用化に結びつかなかったことについて実に客観的な分析を試みて発表している。

この中で小玉氏は、光造形のアイデアを思いついたのは、まず「問題意識を長い間、潜在的に持ち続けたからである」と語っている。小玉氏は研究ノートを丹念 につけていた。ノートをつけるだけでなく、ときどきそのノートの内容を読み返していた。そのことも問題意識の持続に役立ったという。1、二年という単位で 考え続け、ときどき何とかならないだろうかと考え続けていた。意識していたというよりも「潜在下で意識していた」とも小玉氏は語っている。

好奇心を働かせて、雑多なことを知り続けることも大事だと小玉氏は言う。展示会をのぞいただけでなく、名古屋市工業研究所時代に他の研究室などに顔を出しては、他人がやっている実験や研究に興味を示したのだろう。

また、この技術が実用化という陽の目を見なかったことについては「発明の評価がたいへん難しく、上司が関心を示さなかったことも自分の自信喪失につながっ た」と言う。しかし上司が悪いというよりも、研究成果の重要性をもっと上司にアピールして「理解してもらうように努力することも不足していた」とも語って いる。

幻に終わった世界初の「小玉特許」

光造形装置の基本的なアイデアを思いつき、学会で発表したり学会誌でも発表したりしていた小玉氏だが、周囲からそれほど評価を受けなかったこともあって、だんだん研究活動に対し自信を失っていった。

研究に対するエネルギーは低下し、自分の生き方の方向転換を考えるようになった。弁理士試験を受けるようになったのはそんな動機があったからである。小玉 氏が弁理士試験に合格し、弁理士登録をしたのは1985年、34歳のときである。それから彼は、これからは特許の時代だと考え86年から1年間、アメリカ の特許事務所へ修業に行く。

そのころアメリカは、1985年には世界最大の債務国に転落し日本やドイツなどに工業製品の貿易で負け続け、アメリカ市場を日本やドイツに明け渡してい た。レーガン政権は産業競争力にかげりが見えるアメリカを立て直そうと、強いアメリカの復活に意欲を燃やした。レーガン大統領は、ヒューレット・パッカー ドの社長をしていたジョン・ヤングらにアメリカの国家戦略を考えるよう諮問した。

86年に出たいわゆるヤング・レポートは、研究開発をしっかりやり、そこから出てくる成果を物質やサービスと同じように位置づけて財産とするというもので、特許に代表される知的財産権を大事にするプロパテント政策を打ち出した。

小玉氏の渡米はまさに、そうした時期と重なっていた。

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