3Dプリンターに見る技術革新と特許(3)
名古屋大学の研究者からスタートした小玉秀男氏
1989年に初めて光造形装置(現在は3Dプリンターと呼ぶ)を見て衝撃を受けた山田眞次郎氏から紹介されて、この3Dプリンターを世界で最初に発明した小玉秀男氏と会ったのは、1997年の暮れであった。
小玉秀男氏
小玉氏は、名古屋大学工学部を卒業したあと理学部大学院に進み、大気水圏科学研究所で南極やヒマラヤ、アラスカ などに大量に積層している氷河の研究をしていた。大学院を修了した後、研究者として引き続き残っていたが、氷河を分析し200年後、300年後の予測をしながら、自然現象として何が発生するかというようなことを研究しているうち、疑問を感じるようになった。
「200年後・ 300年後まで生きていられないので、自分の研究の正誤がわからないままに死んでいく。そんなことを考えているうち、自分は理学部の研究者向きで ないと思うようになり、実験をやるような仕事を探すようになった」
間もなく名古屋市工業研究所に就職し、基本コンセプトにたどり着 くまでは企画課にいたが、その後は電子部に移動し、実験して論文を書くようになる。
企画課にいたころである。展示会を企画する企画課職員として、展示会を見に行く機会がたびたびあった。
あるとき小玉氏は、3次元CADのデモンストレーションをしているところにぶつか った。1978年のことである。3次元CADなどほとんど知られていないころだが、値段を聞いてみると2億数千万円もする。
小玉氏はオペレーターから操作を習い、実際にCADを操作して簡単な立体モデルを作ってみた。作った立体形は、画面の中で好きなように回すことができる。立体形をくるくる回せば、立体形の陰になる向こう側も底の部分も自由自在に見ることができる。設計をするときも、自由自在に画面の中で立体形を回 転させたり動かしたりして、デザインを付け足したり削除することができる。これは面白い。
その反面小玉氏は、複雑な形を設計でき ても設計者が他人に説明するとき、どのようにして立体形を説明すればいいだろうかと考えた。言葉ではなかなか言い尽くせない。2次元のものならプリンターで印刷すればいいが、3次元になると立体形になるから設計はできても、実物を手にすることができない。その後も小玉氏の頭の中をこの課 題が消えることはなかった。
画期的なアイデアにたどり着くまで
名古屋市工業研究所では、半導体の改良や集積 回路の研究もしている。小玉氏は半導体のセンサー開発グループの部屋に出入りしているうち、半導体の回路を製造するときにフォト・レジスト(感光 樹脂)を使って何回も繰り返し処理する現場を見る。
半導体は単結晶のシリコンの薄い板「シリコン・ウエハー」の表面に回路を作る のだが、ちょうど写真の焼き付け、現像と同じようなプロセスになる。写真で言えば印画紙にあたるウエハーにまずフォト・レジストを塗る。次にマスク( ネガフィルム)からウエハーにパターンを焼き付ける。写真の場合は焼き付け・現像は1回で終了するが、半導体の場合は焼き付け・現像を同じウエハーの上に何回も繰り返す。
小玉氏は、この作業を見ながらフォト・レジストを使って加工する技術を知る。そのころ展示会で、印刷技術をデモンストレーションしているのを見た。新聞を印刷するときに版下をどうやって作るか、その製造技術を見たのである。
透明の ガラス板の上に透明のサランラップのような薄い膜を広げておく。その上に感光性樹脂を薄くのばす。それからまたサランラップ様の薄い膜をかぶせ、さらに新聞紙面の白黒のマスクフィルムをかぶせ、上からと下からの両方から光を浴びせる。
下からの光で下から半分が固まる、上からの光でマスクフィルムの白いパターンのところだけが固まる。できあがった樹脂版の表面には、版画状に文字や写真が浮き出ている。これにイン キをのせて版画と同じ原理で印刷すると新聞ができあがる。
「これを見ているときは、ははあ、こうやって新聞はできるのかと 思ってぼーっとしていましたが、帰りのバスの中でにわかにアイデアが浮かんだのです」
あの薄い版下を重ねて厚くしていけば、立体形ができるのではないか。小玉氏の頭の中で、3次元CAD、半導体の製造技術、印刷の版下製造技術の3つが融合してあるアイデアが浮かび上がった。
「フォト・レジスト(感光性樹脂)に光を当てると、厚みのあるものを作っていけるという技術と、半導体製造でやっているフォト・レジストを何度も何度も、とっかえひっかえ加工していくことがつながったのです」
この技術を使えば、二次元動作の繰り返 しをするだけで3次元の立体形を作ることができる。これこそ3次元CADのアウトプットではないか。これをコントロールするのは、XY軸の二次元を操作するだけだ。二次元の平面処理を繰り返していくと立体形を作ることができる。3次元CADの作ったデータを二次元のXY平面で点座標として示し、それを繰り返していくと上に重なって立体形になっていく。つまり立体形を輪切りにし、その輪切りの断面を幾層にも重ねていけばいい。
アイデアをまとめて特許出願をする
これはいけると小玉氏は確信した。その原理を整理し、小玉氏はすぐ特許として出願する。発明者はもちろん小玉氏、出願人も小玉氏にした。この歴史的な特許出願書類は「立体図形作成装置」という発明名称をつけられ、1980年4月12日に特許庁に出願された(特開昭56-144478)。
名古屋市工業研究所の所員だったので出願人は研究所の名前でもよかったが、そうすれば出願経費も研究所に支払ってもらうことになる。小玉氏はそのときまだ企画課の職員であり、展示会や研修などを企画するのが 仕事だった。職務に「発明すること」は含まれていなかった。
今でこそ公的研究機関に所属する研究者の特許の発明や出願について一定のルールがあるが、その当時、研究者の特許出願などという意識も現象も、ほとんどなかった。小玉氏は「「名古屋市の予算を使って出願する ようなアイデアでもなさそうだ」と思ったという。
特許出願しようと思いついた小玉氏だが、弁理士に依頼するという発想が浮かばず自分で出願書類を作った。明細書の作成に関する何の知識も経験もない。他の出願を読み、いわば見よう見まねで作成したという。
余 談だが今になって、その出願内容がどうだこうだといっている弁理士がいるようだが、当時は弁理士ではなかったし「まったくの素人が書いたものだった 」と小玉氏は語っている。
立体アウトプットを実証した小玉氏
小玉氏は自分のアイデアが正しいかどうか、実験してみようと考えた。当時、CADはようやく実用化されたばかりであり、販売価格は2億数千万円もする。CADで設計するのは無理だ。小玉氏は母親が 設計した自宅の模型を作ることにした。
自宅の家を土台部分から屋根のてっぺんまで、二十数層に輪切りにした。その輪切りにした断面の形状をしたマスクフィルムを作り、そこに光を浴びせれば、光が当たった部分の樹脂が固まるはずだ。1回に光を当てる露光時間を10分程度に した。一通り終了した後、水槽から基板をそろそろと上げてみた。
「いやあ、感激しました。にょきにょきと液体の中から立体物 が出てきたとき、本当にできているんでびっくりしました。ほんと、できた、できたという思いでした」
外から見えなかったのは、屈折率 がほとんど変化しないので、積層して物体ができていっても外からは見えにくかったのだ。この模型は「丸太小屋風のものだったが内部には階段や椅 子、家具まで見えるようになっている」ものだった。
これが世界で最初に作られた光造形である。この歴史的立体造形は、七センチ ×五センチ、高さ五センチ余の小さなものだ。写真に撮って論文にも掲載したが実物は捨てられてしまう。歴史に残る第1号の光造形がないのは 、まことに残念だ。
この後小玉氏は、マスクフィルムではなく、XYプロッターで光を出す細いビームを動かせば、1様の厚みのある硬い層がで きるのではないかと考えた。実験するとこれも思惑どおりうまくいった。
実用化になるかどうかそのときはまだ確信がなかった。それでも、はやる気持ちを抑えて上司に報告したが、上司は一向に感心する気配がない。学問的にもっと価値あるものだったら、上司の低い評価にも抵抗してがんばれたが、小玉氏もそれほど優れた研究成果とは思っていなかった。
しかし小玉氏はこの成果を1981年4月に開かれた 電子通信学会(現・電子情報学会)で発表し、すぐ学会誌に論文を書いた。その直後に、日本を代表する大手電子通信企業が小玉氏の研究室に見学に来る。何を目的に来たのか定かではなかったが、この企業は3年後に光造形の関連技術を多数、特許出願をしていることを知った。
小玉氏はそのころを思い出し「見学の際には、一向に感心した風もないポーカーフェースでおられ、やっぱり関心を持ってもらえないと落胆しました。これも自信喪失の一因でした」と述懐している。
だがこの企業は、この特許出願の審査請求をしなかったらしく、特許を取得することはなかった。
英文で論文を発表する
小玉氏は世界初の光造形の成果を、英文の論文にしてアメリ カの物理学会誌に投稿した。同学会誌の1981年11月号の「Review of Scientific Instruments」で、「フォト・レジストを用いて3次元プラスチックモデル を自動的に作成する方法」というタイトルで掲載された。
小玉氏の論文は「Review of Scientific Instruments」に掲載された。
この論文は、光造形装置と3Dプリンターの歴 史を語る上で必須の文献である。光造形ができる原理を学問的に説明し、にょきにょきと丸太小屋風にできあがった自宅の模型の写真もついている 。この論文は、コンピューターのアウトプットとして立体造形を作る方法を研究していた、世界中の研究者の注目を集めたに違いない。
論文が掲載された直後の1982年8月、アメリカのスリーエム(3M)社の研究員アラン・ハーバートが、小玉氏とほとんど同じ原理で 光造形ができるとの研究成果を発表した。続いて大阪府立産業技術総合研究所の丸谷洋二氏もほとんど同じ技術を開発し、小玉氏から遅れること4 年目の1984年5月に特許出願し、実用化を目指した研究会まで作って企業へ働きかけたが、結局、実用化はできなかった。