知恵
大正から昭和時代に活躍した仏教学者で、真言宗の僧侶である高神覚昇師(1894-1948年)の著書「般若心経講義」の説明の中に、知恵についての言及があります。もちろん、仏教でいう知恵とは何かという説明の中にでてくるのですが・・・。
知恵、つまり「智慧」には三種あるといっておられます。
聞慧(もんえ)と、思慧(しえ)と、修慧(しゅうえ)との三慧がそれです。
す なわち、第一に聞慧というのは、耳から聞いた智慧です。きき噛(かじ)りの智慧です。智慧には違いありませんが、ほんとうの智慧とはいえません。第二の思 慧とは、思い考えた智慧です。耳に聞いた智慧を、もう一度、心で思い直し、考え直した智慧です。哲学の領域にもなるくらい思料して得た智慧です。第三の修 慧とは、実践によって把握せられた智慧です。自ら行ずることによって得た智慧です。
前述の書物を久しぶりに見て、三つの智慧は、なんとなく有効な発明に通じるところがあるなと、ふと思いました。
「聞慧」に近い発明は、お客様の要求に応えるために、見聞きしたニーズを解決するための様々な工夫をした結果生まれた発明です。これはニーズの先取りがで きると比較的良い発明を生むことにつながりますが、どうしても皮相的な解決策になり、応用面というか、ちょっとニーズが変化するとカバーしきれなくなる可 能性があります。
「思慧」となると、お客様の要求を分析し、その要求の本来の課題は何かと思料することで、ニーズの本来の姿を描き出し、お 客様が要求として表現しきれていない本質に迫った結果から本来のあるべき姿を求めながら、その解決手段であるアイデアを描き出すことで思い至る発明です。 これは顧客の深層に迫る真の解決策が生まれてくる可能性があります。比較的に寿命の長い発明が生まれる可能性があります。
「修慧」は、自ら が現場に入り実践の場を踏まえたニーズを肌で、そして身体で感じ取った発明といえます。こうした現場からの発明には、誰がやってもそうなるという、当たり 前の発明が生まれるケースが多くあります。中々権利化を思いつかないが、権利として取られてしまうと逃げることが容易でない発明といえます。他社からみる と潰すことができないし、どうしても実施せざるを得ない回避することが困難な発明といえます。こうした発明が権利化されると技術的には決して高度でなくて も、有効な特許として活躍する発明が生まれることになります。
最近の技術開発は、開発期間の短縮に迫られていることもあり、新しい製品で あってもある程度枯れた技術を採用することが多くなっています。実現性が高く使用実績があり品質的にも保証され、製品化しても故障や決定的な障害を引き起 こす恐れがない、トラブルの少ない技術によって実現する商品や製品が少なくありません。技術や部品の標準化が進み、誰がやってもある程度は設計製造ができ る技術によって構成される商品が少なくありません。現場からの発想で修慧の知恵、枯れた技術の応用や工夫、部品や技術の組み合わせの中に秀いでた効果を発 揮する発明が出てきそうな気がするのです。