産学連携を切り開いた「大村方式」
日米の知力に差はないが研究費は比較にならない
2015年12月10日にスウェーデンのストックホルムで行われたノーベル賞授賞式は、荘厳な式典だった。筆者は、生理学・医学賞を受賞した大村智先生に招待されて、授賞式に引き続いて開催された晩餐会と舞踏会に参列する栄誉をいただいた。
授賞式に先立ち大村先生は共同受賞者のウィリアム・キャンベル・米ドリュー大学名誉研究フェローと屠??(ト ユウユウ)中国中医科学院・終身研究員兼首席研究員とともに、受賞業績について講演を行った。
大村先生はその中で、抗寄生虫薬の開発は、キャンベル博士が研究していたメルク社と自身の研究チームのどちらが欠けても実現できなかったと、産学連携の効果を説明した。ここで改めて大村方式と言われた産学連携の先駆けについてまとめてみたい。
北里研究所とメルク社の産学連携が生まれたいきさつは、つぎのようなエピソードから始まる。
1971年からアメリカのウエスレーヤン大学に留学していた大村先生がたびたび感じたことは、日米の研究者に知力の差はないということだった。
アメリカの研究現場は、日本とは比べ物にならないくらい豊かな研究費が使える。しかし日本でも十分な研究費を使えるなら、世界の先端と勝負できる成果を出せるのではないかという考えだった。
大村博士は、大学の研究者は世の中に役立つことをしなければ意味がないと常々考えていた。それは幼い時に祖母から「人に役立つことをしなさい」と教えられてきたことと無関係ではないだろう。
微生物産生の有用な化学物質を発見しても世の中に役立てたいという考えは、製薬企業と組まなければできないという考えになっていった。
ノーベル賞証書を見せてくれた大村先生
ノーベル賞受賞者に授与された金メダル。輝いていて写真にもよく映らなかった。
アメリカの研究費導入を学ぶ
大村先生がアメリカのウエスレーヤン大学の客員教授として留学したのは1971年である。受け入れたマックス・ティシュラー教授がアメリカ化学会の会長になったため、研究室の運営と大学院生、ポスドクなどの面倒は大村先生がやるようになる。
大 村先生は、アメリカの研究室で活動するうちに、日本の研究室でもアメリカ並みの研究費があればそれ相応の成果を出せると思うようになる。その当時からアメ リカの研究者は、外部の企業から研究費を導入し、研究成果を企業に移転して実用化に貢献し、さらに研究費を導入するという方法が普通になっていたという。
大村先生は、約1年半後に帰国するとき、アメリカの大手製薬企業を回って歩き、日本へ帰国後の共同研究と研究費導入の交渉をした。アメリカの研究者のやり方を見ていたからである。
70年代の初めころ、日本では産学連携ご法度とされていた。大学の研究の自由が企業によって汚染されると考えられていた。60年代に吹き荒れた大学紛争の影響も残っていた。
大村先生は、研究は重要だが世の中の役に立たなければ意味がないと考えていた。微生物由来の化学物質を発見し、単離して構造決定するだけでは満足しない。これを創薬に結び付けて社会に役立たなければ研究成果は完結しないと考えていた。
そのころアメリカでも、公的資金による研究成果であっても大学が特許を取得でき、企業への技術移転を容易にしなければ社会貢献できないという考えが出始めており、1980年にバイ・ドール法が成立して産学連携に弾みがついていく。
メルク社と産学連携を結ぶ
大村先生はメルク社との産学連携を約束し、正式な契約書を交わすのは帰国後である。
この契約書の内容がアメリカでも「大村メソッド」と呼ばれるようになる。バイ・ドール法ができる前の契約内容であり、いま読んでも画期的な内容になってい る。大村先生は、たった一人で英語の辞書と首っ引きで法律用語を正確に解釈しながら、メルク社が派遣してきた契約担当者と交渉して取りまとめた。両者が 1973年3月16日に合意した契約書の骨子は次のようものだった。
この要旨は、以前にもこのコラムで紹介しているが再度、掲げてみる。
1 北里研究所とメルク社は、動物に適合する抗生物質、酵素阻害剤、および汎用の抗生物質の研究・開発で協力関係を結ぶ。
2 北里研究所のスクリーニングおよび化学物質の研究に対しメルク社は年間5万5千ドルを向こう3年間支払う。
3 研究成果として出てきた特許案件は、メルク社が排他的に権利を保持し二次的な特許権利についても保持する。
4 ただし、メルク社が特許を必要としなくなり北里研究所が必要とする場合は、メルク社はその権利を放棄する。
5 特許による製品販売が実現した場合は、正味の売上高に対し世界の一般的な特許ロイヤリティ・レートでメルク社は北里研究所にロイヤリティを支払う。
この契約書の特徴は、動物抗生物質の開発にターゲットをあてたことである。ヒトの抗生物質の開発は、競争も激しく大村研究室が参入しても勝ち目は薄い。動物抗生物質の開発で畜産動物の飼育が順調に行けば、飼料代が節約できるので世界的にみると膨大な利益に結びつく。
メルク社は、大村先生らが発見した化学物質をもとに開発した動物抗生物質の売上で、世界のトップを20年間も走り続けることになる。その売上に対するロイヤルティとして約215億円が北里研究所に研究費として還流されてきたのである。
特許ロイヤルティと委託研究の両立
契約書の骨子で特徴的なのは、第2と第3項が両立しているところである。委託研究契約と特許契約との両立は、現在でもユニークである。ま た、特許の取得権利を最初からメルク社にしたのは、大村先生の研究室にとっては特許取得の諸経費と人材の負担がなくて済むこと、メルク社にとっては最初か ら権利を取得できるので特許をめぐるトラブルなども回避できるという安心感がある。
特許による製品販売で生じる売上高に対し、特許ロイヤルティを支払うという条項が莫大な研究費を還流させるとは、メルク社も予想できなかったことだろう。
当時でも研究資金提供の枠組みの中に特許を取り入れること自体珍しかったのではないか。大村メソッドと呼ばれたのは、そのような事情があったからと推測できる。
また、このような契約を結ぶに至った交渉で大村先生が説明した研究の取り組みは、次のようなものだった。
① 微生物の分離・培養・育種・保存
② 化合物の分離・精製・構造決定・活性評価
③ 有機合成・化学修飾
こうしたグループで研究を分担して進めるものだ。その連携は大村先生のリーダーシップで進められており、実際にチームワークは非常に強固なものであったことが当時の研究者からも語られている。
大村先生は、このような共同研究体制は、日本人に向いているとしており、このような体制を組んだことも産学連携の新しい戦略として歴史に残るだろう。
ノーベル生理学・医学賞を共同で受賞したキャンベル博士夫妻と