火薬
過日、三浦半島の海辺をブラブラした時のことです。一緒に行った人の発案で、帰りに横須賀にある三笠公園を見ないかということになりました。
ご承知の方々もおられるでしょうが、三笠公園には、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を打ち破り、勝利に導いた戦艦三笠の実物が記念艦として保管されています。戦争の凄まじさを実感するのには、一度は見ておきたいモノです。
三笠は100年前の1900年11月8日に英国で建造され、3年後に連合艦隊の旗艦となり、26年間活躍しました。直径30センチメートルの大砲は傍で見ると馬鹿でかいものでした。あちこちに被弾した後の修復された所が赤いペンキで示されていましたが、良くこれだけ破壊されても沈没せずに戦って来たものと感心したものです。行って見て初めて知ったのですが、三笠は沈没したこともあるのだそうです。これは港に停泊中に事故で火薬庫が爆発して、船底に穴が開いてしまったためで、後に引き上げられて修復されたようです。
日露戦争といえば、日本が近代社会の中に入って行く過程で行なわれたものです。ヨーロッパの強豪で、物量・戦力的には数倍も優れていたロシアを相手に良く勝ったものと思いますが、相手の戦略的な不味さや、国内情勢の不安(日本が後押しした一面もあるようです)などから、講和が成立して辛うじて勝ったと本で読んだことがあります。
そうした幾つかの要素が複合して勝利を得たことは確かでしょう。しかし戦争の影には大きな発明が生まれ支えて来ていることも見逃せません。
日露戦争で、ロシアが驚き、日本は毒ガスを使っているなどと世界に訴えた話が残っています。ロシアの艦船に日本の大砲が着弾すると、一気に火の手が上がって傍にいる人がバタバタと倒れてしまうというのです。艦体に命中しなくても海中で爆発して3000度にも上るともいわれる高熱ガスを発生させてその破壊力は大変なものだったようです。
空飛ぶ旅行カバンのような不細工な砲弾が飛んできて、周り中を破壊してしまうと、世界中で評判になりました。1889年に下瀬雅允が発明した下瀬火薬がその正体でした。
当時一般に使われていた綿火薬の6倍もの威力があったとする人もいて、世界中が注目をしており、1904年のニューヨーク・タイムズ紙では「日本の火薬は革命的発明であるが国家秘密で内容は不明なるも、ロシア人はその威力を肉体的経験で学びとった」とされる記事まで掲載されたのです。
下瀬火薬の中身は、ピクリン酸で黄色い結晶だそうです。下瀬は上司である原田宗助から「弱国日本が大国を相手に勝つためには、改良ではなく世界の炸薬の観念を一変させるような発明をせよ」と訓示され、海軍兵器製造所の入所から3年で完成させたのです。
私が調べた範囲では、下瀬火薬の発明は、特許として成立した形跡はなく、重要軍事機密として保たれていたようです。その後1909年に日本では秘密特許制度ができましたが、第二次世界大戦で敗戦し、制度も無くなりすべてが公開されてしまいました。
なお、現在でも秘密特許制度は、アメリカにあり、軍事技術などが対象になります。該当する発明は、日米の協定により、日本でも公開されないことになっています。