大学教育の立て直しを考える(下)
シンポジウムで出た大学教育現場の惨状
日本の大学にもいい点がある
日本の大学の問題点を洗い出し、立て直しを考えるシンポジウムの後半は、
4人のパネリストによる討論だった。
登壇したのは、安西祐一郎(日本学術振興会顧問・公益財団法人東京財団政策研究所所長)、
黄鴻堅(ウイ ホンキエン、元麻布大学獣医学科教授、JSTさくらサイエンスプログラム・アドバイザー)、
各務洋子(駒沢大学学長)と橋本五郎(ジャーナリス、読売新聞特別編集委員)さんの4人である。
モデレータの橋本さんが、
日本の大学でもいいところがあるのではないか。
いい部分を伸ばそうという発想も重要でるあるとして、パネリストの意見をきいた。
ウイ先生は「日本の大学のいいところは、学費が他の国と比べて非常に安いこと」をあげた。
ウイ先生がJST(国立研究開発法人・日本科学技術振興機構)の
アジア各国などから高校・大学生を日本に招聘するさくらサイエンプログラムのアドバイザーとして、
多くの優秀なアジアの若い人材を見てきた体験からの発言だった。
「オハイオシティ大学の学生に聞いたら、市民の学生は学費1万ドル、
それ以外は、2万4千ドル(日本円で約340万円)。ざっと日本の2倍以上です。
タイの大学でも日本とほぼ変わらない学費です」という。
またハードウエアは進んでいるとも言う。
各務先生は、日本の大学と学生の良さについて
「日本の学生は(問題の所在に)気付けば、その後の成長が早い。
気付かせると、本学(駒澤大学)の学生たちも、1、2年生で、1年くらいの間に本当に急激に伸びる」と語った。
これは、日本人の資質の高さもあるというのが筆者の見解である。
個人の能力は、外国の同年代と差はない。
この20年間で差が付いたのは、
国家的なシステムの停滞、旧式から抜け出せない保守的思考回路のためだろう。
国家的システムとは、立法・行政・司法を代表とする組織・機関であり、
国公私立を問わず大学も同じである。
偏差値至上主義の大学入試、それに追随してきた企業の入社・採用システムである。
安西先生は「日本の大学のいい点というよりも日本そのものがいいことである」という別の視点を語った。
「治安もまあよい。環境が清潔で、水道水もそのまま飲める。
日本の中で生まれ育った学生にとっては当たり前だが、留学生から見ると、そこを魅力的に感じる」と指摘。
生活の質では、日本は外国に比べても損傷がないとの見解を示した。
多様性とは何か
パネリストの意見では、多様性の欠如も指摘された。
各務先生は「デジタル化とダイバーシティ(多様性)を公約に掲げてやっている」と語り、
この2つを知ることで「違いに気付き、日本のよさを再興すべき」と言う。
「デジタル化で世界の情報がどんどん入り、
海外の人たちとやりとりをすることで自分自身のオリジナリティを確認し、
歴史のある日本を誇るべきと気付ける。
デジタル化を通して、ダイバーシティを知り、
多様性がある日本の良いところに注目できる」との見解を語った。
ただ安西先生は
「多様性と言っていると、多様化した気持ちになってしまう。それは避けたい。
多様性が叫ばれるなかで、もう少し独立自尊を進めるべきだ」と語った。
ウイ先生は「日本の大学の良さを外国に向かって発信することが不足している」と指摘した。
学会で海外に出た教員や研究者は、
学会終了後に見聞を広げ宣伝する時間と費用を国や大学当局が認める仕組みを作るべきという。
民間企業で海外に出張に出た社員は、
仕事以外の見学、観光が仕事に役立ったという例はよく言われているが、
こうした慣例を広げて、大学の国際化に役立てるという発想は大事だろう。
橋本氏は、冒頭プレゼンでウイ先生が提起した偏差値による大学の差別呼称問題を取り上げ
「このグループ分けした差別呼称の不使用提起はいいとしながらも、
アメリカなどではアイビーリーグなど様々な言い方でグループ分けをしているのではないか」という。
しかし筆者の見解を言うと、
日本のように個々の大学の歴史・方針・伝統を全く無視して、
単に偏差値だけでグループ分けしているのは日本だけであり、異常である。
それに振り回されて進学指導をしている高校も問題だ。
メディアも批判することなく、この呼称に乗っているように見える。
ウイ先生は、グルーピングをすることで
「自分たちはあのグループに入れなかったから、エリートじゃないといった劣等感を感じてしまう。
それぞれの大学が独自性、オリジナリティを完全に出していければ、これはいずれ壊れていくと思う」という。
安西先生は「あまりにもとんがったピラミッド構造というのは、二つ弊害がある。
一つは大学側の問題で、そのピラミッド構造が固定されているために、もうそれでいいんだとなってしまう。
もうすこし柔軟に変われるようにしてほしいというのが第一点。」
もう一点は、若い人から見たときに自分のパスが複数あってほしいことだという。
「ここはもう駄目だから自分はもう駄目なんだ。
一生駄目なんだなどと思わないで済むような日本にしてほしい」と語った。
最近、一部の企業の入社試験でも大学名、氏名をマスクして採点したり審査している。
真の実力主義を掲げている企業もある。
決められた大学から優先的に採用し、再教育する企業の姿勢は、
戦後の高度経済成長期を支えた日本型経営だったが、
ようやくそれに風穴を空けるところが出てきたようだ。
フロアからの発言では、黒川清先生(元日本学術会議会長)から、
戦後、急激に大学進学率が高まっていったことに、日本として何か意味があるのかとの発言があった。
戦後、ホワイトカラーを目指す人が増え、高卒で就職する人が減少していったが、
学歴社会になって何かメリットがあっただろうか。
多くの人の見解でも、高学歴層は確率的に能力の高い人材を抱えているが、すべてではない。
要は個々人の能力の差で決まることが多く、さらに能力とは何かという課題も出てきた。
特にコンピュータ社会に象徴されるデジタル革命の中では、
人の能力は知識の多寡で決まるものではなく、判断力、勘で決まることが少なくない。
国家のあらゆるシステムを高学歴の人材で決めてきた日本の途上国型スタイルは、
とうに古びたものになってきたのである。
コロナ禍でオンライン授業が爆発的に普及した。
これまで大学が一か所に集めて授業をしてきた意味が改めて問われている。
一方で対面授業が重要であることも指摘されており、
企業の活動でもメールなどの対応では不十分であり、対面の重要性も指摘されてきた。
時代は急転回している。
ChatGPTの実用化などデジタル文化とどう付き合っていくのか。
大学教育の見直しは喫緊の課題である。
このシンポジウムの詳報は、
主催者の認定NPO法人21世紀構想研究会HPでアップされているので、
詳しくはこちらからご覧ください。
https://kosoken.org/main/%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e6%95%99%e8%82%b2%e3%81%ae%e7%ab%8b%e3%81%a6%e7%9b%b4%e3%81%97%e3%82%92%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%8d%e3%83%ab%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%b9%e3%82%ab%e3%83%83/