コラム

吉野彰博士のノーベル賞受賞と特許 (下)

7兆円以上の市場を作った画期的な技術開発
ノーベル賞受賞者を評価する基準は、原理原則の発見・発明だけではなく、その発見・発明を端緒に、どのくらい社会に役立ったか。その貢献度によって授与するようになった。
リチウムイオン電池の普及によって、今では年間7兆円以上のマーケットが出来上がった。筆者は、年間1兆円のマーケットを作るような発明をするとノーベル賞に届くと思っているので、吉野博士は大分前から「当選確実」圏内に入っていた。

吉野さんの文化勲章受章を報じる旭化成のホームページ
https://www.asahi-kasei.co.jp/asahi/jp/news/2019/ze191029.html

たとえば、酸化チタン光触媒の原理を世界で初めて発見した藤嶋昭・前東京理科大学長の業績は、人工的に光合成を実現する原理の発見でありノーベル賞級の成果であるが、それだけではなかなか受賞までは届かない。
酸化チタン光触媒の応用技術で、どれだけ社会貢献したかがカギになる。この関連産業ではまだ、年間1兆円の市場を形成するまでに至っていない。

この見解は、ノーベル賞の選考委員会が特許を重視するようになったことを公式に発言するようになったこと、産業技術の開発貢献にもノーベル賞を授与するようになったことから考えに至ったものである。

それが象徴的に出たのが、20世紀のアンカー受賞者として話題になり前回に紹介した物理学賞に輝いたテキサス・インスツルメンツ(TI)社のジャック・キルビー博士と化学賞に輝いた筑波大学名誉教授の白川英樹博士ら3人の業績内容だった。

この流れは、2002年に化学賞に輝いた島津製作所の技術者、田中耕一さんへとつながっていった。田中さんは「生体高分子の同定及び構造解析のための手法の開発」で授与されたもので、たんぱく質の質量を精密に計測する手法を開発して研究現場と化学・製薬企業の開発現場を一変させるような貢献をした。

吉野さんの発明報償はどのくらいなのか
では、企業内の発明者がノーベル賞を受賞するような画期的な発明をして社会に貢献した際にどのくらいの報奨があるのか。これもまた大きな関心事につながっていった。

吉野さんの業績は、スマホや電気自動車の普及など実生活に直結する貢献であり、日本人ならほぼ誰もが体験している技術成果である。それは旭化成の業績に大きな貢献を出したことは間違いない。

旭化成の2005年知的財産報告書によると、リチウムイオン二次電池の事業ライセンスについて「強固かつ網羅的な特許群156件(国内特許101件、外国特許55件)を保有しております。これらの特許群に基づき、日本におけるほとんどの電池メーカーとライセンス契約を締結しており、その使用料収入は貴重な収益源となっています」
https://www.asahi-kasei.co.jp/asahi/jp/r_and_d/pdf/ip_report2005.pdf
とある。


この報告からも吉野さんの発明特許に関する旭化成の収益は相当な額になっただろうと想像できる。

旭化成の職務発明制度と報奨制度
公表されている旭化成の特許に関する職務発明制度は、次のようなものである。
職務発明制度(特許の場合)
①出願時発明金
②登録時発明金
③実施時発明金
④有益特許発明賞
(2年毎に「2年間の特許収入等の事業利益×技術や発明者の貢献度+1百万円」で支払う)
吉野さんの発明については④に該当すると思われるが、それについて同社は、「特許収入等の事業利益で一定の金額以上のものが対象」であるとしているが吉野さんに支給した額は非開示としている。

このほかに同社は「公的な表彰を受賞(受章)した場合の特別賞」も制度としてあることを公表している。
対象は、公的表彰を受賞(受章)し、その功績が広く世間に知られることになった例であり、「受賞者本人のみならず、企業の評価価値を高める効果も大きく特別賞を授与する」ことにしているとしてノーベル賞、紫綬褒章、文科大臣賞などをあげている。ただし報奨金額については原則非開示であり、賞の重みにより金額に差をつけているとしている。

田中耕一さんは特許でノーベル賞を取った最初のケースか
ところで、ノーベル賞と特許を研究してきた筆者にとって興味があるのは、2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんの場合である。
田中さんの受賞当時の特許出願は、日本で12件、米国で1件の合計13件であるが、この中の1件の特許でノーベル賞の栄冠を勝ち取った。

田中さんは1985年に島津中央研究所(当時)で、高分子の分析で新しい手法を開発した。当時25歳。成果を同社の研究速報に報告した。
同年8月に「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法および試料ホルダ」
の特許名で吉田多見男主任研究員と連名で特許を出願した。これが決め手になってノーベル賞を授与された。

ただし学術論文ではドイツグループに先を越された。1988年5月16日、ドイツ・ミュンスター大学教授・マイケル・カラス、フランツ・ヒレンカンプの連名で「Analytical Chemistry」誌に「分子量1万を超えるたんぱく質のレーザー離脱イオン化」という論文を掲載。田中さんの発明とほぼ同じ内容であり、その論文の中で87年に田中さんらが学会で発表していることを記載した。

田中さんはそれから遅れること1か月の1988年6月6日、「Rapid Communications in Mass Spectrometry」誌に「レーザーイオン化飛行時間型質量分析計による分子量10万までのたんぱく質とポリマーの分析」のタイトルで論文を投稿しすぐに掲載された。

論文発表では明確にドイツ勢に後れを取ったが、発明した具体的内容は日本の特許庁に出願した特許明細書に記載していた。また同様の内容は、87年に学会で口頭発表している。

ただし、ノーベル財団の規約では、口頭発表はノーベル賞授与業績の対象にはならない。あくまでも文字として残していなければノーベル賞は授与しない決まりになっている。田中さんの学会での口頭発表は対象にならず、論文発表では明らかにドイツ勢に先を越されていた。

しかし田中さんだけがノーベル賞を受賞し、ドイツ勢は受賞を逸した。授与発表後、ドイツ勢はノーベル財団に抗議したが通らなかった。

ノーベル賞を授与された田中さん

こうした事実の流れを見ると、田中さんが文字にした発明内容は、日本語で書いた特許明細書であった。ノーベル賞選考委員会は、これにプライオリティがあると判定してノーベル賞を授与したものではないか。2052年にノーベル財団が公表する選考経過ですべて明らかになるだろう。

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