コラム

ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士に乾杯!

的中したノーベル賞受賞の予告
2011年9月と10月、この「潮流」で筆者は「産学連携で北里研究所に250億円を導入した大村智博士」として2回にわたって、大村博士の業績を紹介した。

産学連携で北里研究所に250億円を導入した大村智博士 ―(上)
http://101.78.6.44/column/index.php?a=column_detail&id=23

<産学連携で北里研究所に250億円を導入した大村智博士 ―(下)
http://101.78.6.44/column/index.php?a=column_detail&id=25

その中で筆者は、「大村智博士は、かなり前からノーベル賞受賞者の候補として下馬評に上がっている。大村博士の業績を見ると、生理学医学賞、化学賞、平和賞という3つの分野で受賞する可能性がある」として、その根拠を筆者なりにあげている。

今回受賞したのは、生理学・医学賞である。その受賞理由についても、オンコセルカ症(河川盲目症)の特効薬の発明としてズバリ書いている。

メルク社のウイリアム・キャンベル博士と共同で受賞したものであり、この写真は、キャンベル博士が北里研究所に来た際に撮影したものだ。大村博士とキャンベル博士は、新しい薬剤開発で共同研究をしていたものだ。

写真は、北里研究所の創設者の北里柴三郎先生のブロンズ像を挟んで撮影したものである。

大村博士の業績は産学連携だけではない
大村博士の評伝は、2012年2月に「大村智 2億人を病魔から守った化学者」(中央公論新社)として世に出していた。この本は、博士の幼少時代からノー ベル賞研究者までの人生を詳細に書いたもので、博士の評伝としてはこれ以上のものは書けないだろう。しかし、あまり売れなかった。

大村博士のノーベル賞受賞が発表された直後から、報道機関などがインターネットで検索をしたところ「潮流」のこの欄がヒットし、アクセスが爆発的にあがったようだ。

大村博士を3年ほどかけて取材した体験を語ってみたい。

大村博士の評伝を書きたいと申し出たとき、博士は「生まれ故郷をみてほしい」と言って韮崎市の生家に案内された。昔の大きな農家であり、いまは誰も住んでいないが、自然環境や風土はよくわかった。

大村博士は、祖母と両親に育てられて成長したものだが、この3人から受けた影響が、成長するにしたがって博士の人格形成に大きな影響を与えた。その生い立ちについて紹介してみたい。

祖母はよく「人の役に立つことをしなさい」と言っていたという。この言葉が博士にしみつき、研究の岐路に差しかかった時などは、どちらかというと人に役立つ方へ舵を切って研究を進めたと語っている。


両親、祖母、叔父、姉と自宅にて。前列左から2人目が大村智少年(1938年)

先進的な考えだった父親
大村博士の両親は、子どもたちに「勉強しろ」と言ったことは、一度もなかった。やりたいことがあれば何でもやらせた。母親は当時高価だった絵の道具を買ってくれたが、特に絵を描かせようとしたわけではなさそうだ。

父親は、農業を営むかたわら、通信教育で学んでいた。大村博士がそのことを知ったのは、中学生になってからだ。あるとき見慣れない段ボールがあるので開けてみたら、高等講義録と書かれた教材と父親が書いたノートなどを発見した。

勉強した後が生々しくわかるものであり、大村少年はびっくりした。そして自分が毎日、遊んでいることを恥じたという。

日本は戦時中に英語を学ぶことを禁じていた。そのこと自体、馬鹿げた政策であり、当時の日本の指導者はその程度だったのである。

大村博士の父親は、その禁を破り、大村家の子供たちに英語を学ばせた。戦争で東京などから疎開してきた人で英語のできる人には、授業料のかわりにコメを持 参して英語の家庭教師をしてもらった。後年、大村博士が研究者を目指したとき、国際的に認められるために論文はすべて英語で書くことを実行し、1000報 以上の論文の90パーセント以上は英語で書いたものだ。

父親は、住まいの地域に簡易水道を県内で初めて施設したり、いつも斬新な考えで農業を営んでいた。


中学生の頃(1950年)

緻密な日誌を付けていた母親
母親は戦前、小学校の教師をしていたが、戦後は教師を辞めて養蚕を行った。大村博士が小学生のころ、母親が毎日つけていた日記を密かに覗いたことがある。 表紙の裏に「教師たる資格は、自分自身が進歩していることだ」という意味のことが書いてあった。子供ながらも、この言葉の意味に衝撃を受けたと博士は語っ ている。

そしてこの言葉は、大村博士がいつも肝に銘じて研究生活をするようになる。

養蚕は初めてやった仕事だが、カイコの飼育に工夫をこらし、瞬く間に地域では一番品質のいいマユを出荷するまでになった。

日誌には、その日の温度、湿度、カイコの様子、桑の葉の食べる状況などを観察したことを詳細に書いてあった。大村博士が研究者になってからもその日誌をときどき見て、母親の観察者としての行動に驚嘆していたという。

大学生を韮崎まで呼んでセミナーを開いたが、その講義のときに年老いてすでに現役を退いていた母親が、若い学生に混じって講義を聞いていたという。

山梨でも評判だった大村きょうだい
大村博士はきょうだい5人いる。姉、大村博士、二男、三男、次女である。5人とも大学に進学した。上から日本女子大、山梨大、山梨大、東大、山梨大であ る。戦後間もない時代、韮崎市の農村地帯から大学に進学する子は珍しかった。それをきょうだい5人が全員、大学進学を果たし、地元の新聞で紹介されたほど だった。

また男性の兄弟人は、全員博士学位を取得し、大村博士は東大から薬学博士、東京理科大学からは理学博士を授与されている。

このような成育歴を見ると、大村博士のノーベル賞は、もらうべくしてもらった観がある。単に学び直しから飛躍していった研究者ではなく、その素地には両紙の背中を見て育った貴重な体験があったのである。

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